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執筆者の写真社長の大学★長谷川博之

名経営者・本田宗一郎4億円投資の事実とは?

先日、久しぶりに自動車メーカー・ホンダの創業者「本田宗一郎さん」のエピソードを読みました。 実は、私にとって本田宗一郎さんは、大変思い出深い(?)人です…。 私は19歳で上京しました。 音楽で飯を食っていこうと、意気揚々と東京に向かいました。

まずは音楽の専門学校に入学しました。 この学校は、当時飛ぶ鳥を落とす勢いがあり、生徒数は2000人を越えていたと記憶しています。 とにかく、学校には生徒がいっぱいいました。

上京して2年目に、N君と親しくなりました。 N君は私と同じギタリストです。 意気投合して、よく夜中まで音楽談義で盛り上がりました。 そのN君の名前が宗一郎だったのです。 本当は違う名前だったらしいのですが、N君の父親が大の本田宗一郎ファンで、小さい頃に名前を変えたんだとか…。 それほどまでに、本田宗一郎さんの熱狂的なファンが多かったという証です。

当時は、本田宗一郎さんにまったく興味はありませんでした。 正直なところ、ホンダの社長ということくらいしか知りませんでした…。 このような経緯があり、私にとって「宗一郎」という名前は忘れられない思い出があります。 それにしても、子どもの名前を変えるなんて大胆なお父さんです。

さて、「ホンダは倒産するかもしれない」と言われたことが過去に2度ありました。 二輪車が絶不調だった1955年前後と乗用車に進出して量産工場を立ち上げた1965年前後です。 1950年代、浜松には大量の二輪車メーカーがあり、1953年の1年間だけで113社も新規参入してたそうです。 つまり、二輪車は儲かるだけでなく、誰にでもできる商売だったのです。 大変、参入障壁が低かったようです。 そして、ホンダは約200社もある二輪車メーカーの1社でしかありませんでした。

ところが、ちょっとした不況があり、1955年には137社が二輪車から撤退したというから驚きです。

あっという間に、二輪車メーカーは激減したということです。

当時、本田宗一郎さんが考えていたことは、欧米の高性能な工作機械を導入して生産効率を上げることだったそうです。 それだけ当時の日本の工作機械は、精度が悪かったのです…。 本田宗一郎さんは、1952年から1953年にかけて、異常ともいえる投資を行いました。 ホンダの資本金は6千万円でしたが、4億円を投資して欧米の優れた工作機械を買いまく

ったというのですから驚きです。 当時のメディアは、ホンダの経営を痛烈に批判したそうです。 誰が考えても、クレージーな投資です。

ここで疑問なのは、本田宗一郎さんがなぜ巨額投資をしたのかということです。 1962年8月に日本経済新聞に連載された「私の履歴書」によれば…

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私はこの際生産機械を輸入すれば、たとい会社がつぶれても 機械そのものは日本に残って働くだろう。 それならどっちにころんでも国民の外貨は決してムダにはなるまい という多少感傷めいた気持ちもあった。

いずれにせよ、このままでは世界の資本自由化の波に のまれてしまうことは必至である。 世界の進歩から取り残されて自滅するか、 危険をおかして新鋭機械を輸入して勝負するか、 私は後者を選んだ。

ともに危険である以上は、 少しでも前進の可能性のある方を選ぶのが 経営者として当然の責務であると判断したからである。 こうして当時わずか六千万円の資本金しかない会社が ストロームという自動旋盤やその他の工作機械を スイス、アメリカ、ドイツなどから四億円も購入した。

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本田宗一郎さんは、自社のために工作機械を買いながらも、日本の将来のことを考えてい

たのです。

もう、このような経営者は出てこないかもしれません…。

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